日々の雑感

日々の雑感

右見て左見て、ついでに斜めも──平和な国のゆるい用心術

今日は季節外れの寒い土曜日。
今月も早起きして、いつもの箱根山で英語仲間と戯れてきました。
帰宅して、冷えた体に熱いコーヒーを流し込みながら、読む間もなかった朝刊をようやく開いています。

新聞を圧倒するにぎやかなチラシの数々

静かな午後──のはずが、
ページをパラパラとめくれば、今日もにぎやか。
葬儀に、墓に、終活に、保険に美容に健康食品……
おっとその横に──

「家にあるこんなもの、あんなもの、何でも高額買取いたします!」だって。

金銀財宝そんなもの、あったらとっくにハワイでしょうな。
しかし最近、こういうチラシばっかりと笑っていたら、 海外の友人に言われました。

「え、日本って知らない人が来ても玄関開けるの?」

……はい、開けます。

実はこれ、世界では、ほぼ絶滅した習慣らしいです。

笑ってる場合じゃないけど、笑っておく

アメリカは玄関にカメラ。 イギリスはID確認。 フランスは家の構造は国家機密。 インドは家に入れるのは結婚より重い決断。

そんな中、日本だけが 「まあまあ、お茶でも」 と平和のフルオープン。
平和って、ありがたい。 そして、ちょっと怖いかも。

だから、広告も電話も安全確認が必須!
右見て、左見て、上、下、斜め。 ぐるっと見て、チラシはそっと裏返してメモ用紙

これくらいでちょうどいい時代でしょうな。

単なる“書類の人”ではない

行政書士というと「書類の人」という印象が強いかもしれませんが、
実はもう少し、暮らしの近くにいる仕事です。

行政書士法では、
官公署に提出する書類の作成や相談”が基本業務とされていますが、
その周辺には、生活の安全や財産を守るための相談が自然と寄せられます。

たとえば、

財産をどう守るか の考え方を一緒に整理したり、
情報の扱い方 について助言したり、
悪質商法に巻き込まれないための予防 に関する相談を受けたり、
家族の権利や手続きを整えるお手伝いをしたり。

どれも“法律の書類”そのものではありませんが、
暮らしの不安や疑問が書類の手続きにつながることは多く、
行政書士として自然に寄り添える領域です。

だから私は、
新聞の広告ひとつでも「ちょっと気をつけておきましょうか」と
声をかけたくなるのです。

サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ

とはいえ、
土曜の午後にぼんやり眺めるチラシは、どう裏返してもこちらをじいっと見てくる。
「さすが、両面印刷の商魂たくましさ」感心している場合ではない。

行政書士は単なる“書類の人”ならず」…言葉に思わず酔ってしまいそう。

でもね、

そういうものに
わたしは
なりたい…のです。

明日は日曜日、おやすみなさい。

日々の雑感, 高齢者支援

平塚の行政書士が認知症サポーターになって考えた、一番身近な法律の備え

「認知症サポーター養成講座」を受講した気づきを綴ります。誰にでも起こり得る認知症だからこそ、成年後見などの制度を「なる前」に知ることが大切です。

昨日、平塚市高齢者よろず相談センターが主催する「認知症サポーター養成講座」に参加してきました。日頃から高齢者支援の実務に携わってはいるものの、改めて知識を体系的に学び直し、初心に立ち返るための大切な機会となりました。

地域の方々の熱意と、数字が示す背景

会場に入って印象的だったのは、参加者約40名の熱気、そしてその多くが人生経験豊かな女性の皆様だったことです。場違いかと、私は少し恐縮しながらの受講となりましたが、皆さんの真剣な様子に背筋が伸びる思いでした。

実は、この参加者の割合には、講義の中で触れた統計的な背景もあるようです。

男性の平均寿命: 82歳(健康寿命:72歳 → 医療・介護期間は約9年)
女性の平均寿命: 87歳(健康寿命:75歳 → 医療・介護期間は約12年)

女性の方が、医療や介護を必要とする期間が平均して3年も長いという現実があります。会場の皆様の真剣な眼差しは、まさに「これからの自分や家族の暮らし」を見据えた高い意識の表れなのかと、自分なりに深く納得させられました。

正しい理解が、穏やかな暮らしを支える

講師は、看護師でもある認知症地域支援推進員の方でした。
豊富なスライドを交えた講義は、語り掛けるようで大変分かりやすく、実務の視点からも多くの気づきをいただきました。

特に心に残ったのは、認知症のご本人がインタビューに答えるビデオです。
症状の度合いは人それぞれですが、「ご本人の意識」と「周囲の正しい理解や関わり方」があれば、症状の進行を穏やかにし、生活の質を保つことができるというお話でした。

適切な接し方やマナー、ともに生きる心構えの大切さを改めて学び、講座の修了後にはサポーターの証である「オレンジリングのバッジ」をいただきました。認知症への理解がさらに深まったことで、さっそく次の上級研修にも参加したいという意欲がふつふつと湧いています。

認知症サポーターの証である「オレンジリングのバッジ」

「もしも」の前に、未来の安心を整える

認知症は、誰にとっても決して他人事ではない身近なテーマです。
大切なのは、万が一の状況になってから慌てるのではなく、「あらかじめどのような法律や支援制度があるのか」を事前に知っておくことです。
将来の判断能力の低下に備える「任意後見契約」や、財産管理の仕組みなど、行政書士としてお手伝いできる公的な手続きはたくさんあります。

とはいえ、「法律の手続き」と聞くと、どうしても敷居を高く感じてしまう方も多いのではないでしょうか。
当事務所は、地域の身近な相談窓口として、専門用語を使わず分かりやすく丁寧にお話を伺うことを心がけています。大袈裟に構える必要はありませんので、まずはこれからの暮らしの「ちょっとした不安」を解消する世間話のような感覚で、お気軽にご相談ください

誰もが直面し得る不安を、少しでも未来の「心の安寧」に変えるお手伝いができれば幸いです。

日々の雑感

五月晴れの空の下、書き換えられる「台本」

行政書士として日々「法」という名のルールに従っておりますと、時折ふと思うのです。このルールを書き上げているのは、あの「ぎゅうぎゅう詰め」の密室で熱い議論(あるいは主導権争い)を繰り広げている先生方なのだわ、と 。

再審制度を見直す改正案を巡り、検察官の抗告「原則禁止」で本則修正へ 自民に提示、了承の公算 | 文春オンライン

爽やかさの裏に透ける「妥協の産物」

「悪法もまた法なり」とは申しますが、新緑の季節にさらりと本則に盛り込まれた「検察官抗告の原則禁止」も、結局は政治家とお役人の間で生まれた、絶妙な妥協の産物なのかもしれません。冤罪救済という爽やかな正義の表看板の裏で、どこか“やりました感”の演出が静かに進んでいるようにも見えてしまいます。

視線の先にある「次のステージ」

そして、この熱狂の先に見え隠れするのは、国家の骨組みたる「憲法改正」の影。次なる大きなステージに向けて、これからどんな「鮮やかなパフォーマンス」が繰り広げられるのでしょう。
わたくしたち法律の隣接職種にできることは、美しい「新緑の演技」に惑わされず、ちょっと冷めたハーブティーを片手に、法の行方を厳しく、かつ少しとぼけた顔で見守ることくらいでしょうか。

五月晴れの空の下。行政書士たるもの、政治のドラマに中(あ)てられることなく、ただ静かに、「品位」を保って凛とした初夏を歩んでいこうと思うのです。

日々の雑感

100年目のボケと、平和の「取扱説明書」

夏も近づく八十八夜 Tea plantations and snow-capped Mount Fuji

憲法記念日が過ぎ、世の中の喧騒が少し落ち着いたところで、あらためて「この国のカタチ」について、遠い目をして考えてみました。

ぼうっと眺めて、感じる危うさ

5月3日、世間がゴールデンウィークの浮かれモードに包まれる中、私は一人、憲法という名の「驚くほど薄く、しかし極めて濃厚な一通の契約書」をめくっては、その条文をぼうっと眺めていました。
そこで頭をよぎるのは、昨今のあまりに前のめりな改憲議論です。武器輸出の解禁や防衛予算の大幅増など、本来は国会で熟議すべき重要事項が「閣議決定」というショートカットで次々と進んでいく。改正そのものが自己目的化したような今の世相は、まるでブレーキのない車を全力で走らせようとしているかのようで、底知れぬ危うさを感じます。

一つのベクトルに向かって、危うい加速

戦後八十年余、過去を振り返ってみても、これほどまでに異様な喧騒(けんそう)が渦巻く状況は珍しいものです。改憲を急ぐ「前のめりな人々」と、その熱量に煽られる人々。よく分からないまま追随する層がいれば、この混乱を好機とばかりに利用せんとする者たちもいる。それぞれの思惑はバラバラなはずなのに、なぜか全体としては「改正ありき」という一つのベクトルに向かって、危うい加速を続けている。見ようによっては、「緊急事態条項」や「9 条」の議論が、本質を置き去りにしたまま、単なるムードや多数決の論理だけで押し切られようとしている感は否めません。

民主主義の危うさは「多数決が常に正しいとは限らない」という点にあります。
勢いに任せて一度手放してしまった権利や、権力を縛るための「制限のタガ」を元に戻すことは、歴史を紐解けば極めて困難であることがわかります。
日本国憲法が持つ、どんな時代の変遷にも揺るがない「普遍性」の尊さは、紛れもない事実なのです。

憲法を「スマホ感覚」でアップデートしたがる人々

近年の傾向としてありがちな、ネットの「論破師」たちが、憲法という最高法規をスマホのOSアップデートか何かのように「早く新しくしろ」と急かす姿には、少々めまいがします。
中身のコード(条文)も読まずに、「最新版なら良くなるはず」と思い込むその無邪気さ。
「書類の不備」をチェックする身からすれば、そんな軽やかなノリによる「契約変更」には、なかなか首を縦には振れません。

報じられない「トリセツの書き換え」

本来、国家の根幹に関わる「緊急事態条項」の危うさや「9条」の矛盾こそ、新聞や公共放送が「中立な立場」で、徹底的に解剖して国民に伝えるべきではないでしょうか。
しかし、今年の憲法記念日の報道を見渡しても、目に映るのは「改憲に意欲」という政局ニュースばかり。
条文の中に潜む、かつて某国が独裁の足がかりとした「全権委任法」に似た危うい構造や、二枚舌のような論理の綻びを、正面から検証する姿勢はどこへ消えてしまったのでしょう。

知のインフラであるはずの放送波を削ることに汲々とする一方で、これほどまでに重要な「法の不備」をスルーし続けるメディアの姿には、一抹の寂しさを覚えます。

Pros and Cons… Which way should we go? Say a few words? Well, let’s hope that we continue to live.

八十八夜、お茶と「平和の味」

私たちがすべきことは、感情に流されて「トリセツ」を書き換えることではありません。まずは中身を深く知り、法治国家としての筋を通し続けること。
人間は愚かだからこそ、学び続ける必要があるのです。次世代には、何年経っても色褪せない「生き残るための知恵」を手渡したい。

……おっと、いけない。柄にもなく、つい弁が過ぎてしまいました。

夏も近づく八十八夜。今はただ、淹れたてのお茶を啜り、柏餅を頬張る。
そんな平穏なひとときが、実はこの「濃厚な契約書」によって守られているのだと、ふうっと一息つきながら、ただ感謝して噛み締めています。

マスコミが伝えない「餅で包まれたあんこ(矛盾だらけの改憲案)」の喉に絡みつくような不思議な甘ったるさを、お茶で流し込みながら。
茶のお代わりを飲み干す頃には、少しは穏やかな気持ちで明日を迎えられるでしょうか。

そんなことを思う、憲法記念日の午後でした。

日々の雑感

海老名イオンの閉館に「スター・ウォーズ」の奇跡を見た。~抜かぬ宝刀としての法律~

多くのファンで賑わうロビー。最後の上映を待つ熱気に包まれていました。

46年の歴史に幕を閉じる場所で昨日、妻と海老名のイオンシネマへ映画を観に行ってきました。この建物は、5月17日をもって取り壊しが決まっています。約50年もの間、名前を変えながらもこの街に寄り添い、貢献し続けてきた大型ショッピングセンター。その最後の日が、刻一刻と近づいています。

鳴りやまない拍手と、蘇る記憶

この閉館に合わせたのか、上映されていたのは1977年の名作『スター・ウォーズ』第1作でした。会場には多くのファンが集まり、ラストシーンでは大きな拍手が沸き起こりました。さらにエンドロールが終わるまで誰一人として立ち上がらず、再びアンコールの拍手が鳴り響く。そんな奇跡のような感動的な場に、私たちは居合わせることができました。

私にとってこの作品は、高校時代に初めて観た思い出の一本です。続く2作目は、ホームステイ先のアメリカで観ました。郊外の巨大なシネコンで山盛りのポップコーンと大きなコーラを抱えて、子供たちだけで楽しんだのを思い出します。(ラスト場面のハン・ソロの生死は、当時の私の語学力に関係なく誰にとっても謎だったのですね)

法律とは「抜かぬ宝刀」であるべき

ジョージ・ルーカス監督の描く世界には、東洋思想がふんだんに盛り込まれています。劇中の象徴的な言葉「フォース(理力)」を、私の仕事に置き換えるなら、それは「法律」「遺言書」という言葉がしっくりきます。

劇中、ベン・ケノービがルークに「信念のない者には、特にフォースが効く」“The Force can have a strong influence on the weak-minded.” と説く場面がありました。私の持論ですが、法律も同じです。法律とは、倫理や常識がどうしても通用しないときにだけ使い、威力を発揮させるべき「最終手段」であるべきだと思うのです。

最初からライトセーバー(刀)をブンブンと振り回すようなことは、決してあってはならない。私たちが扱う「法律」という力は、大切なものを守るための、静かなる守護者であるべきだと再確認しました。

寄せ書きに込められた「ありがとう」

46年間の想いが詰まった寄せ書き。一つひとつの言葉に、この場所が愛されていた証がありました。

帰り道、1階に展示されていた「46年間の感謝の寄せ書き」に目が留まりました。そこには、小さな子供の字で「さようなら、楽しかったよ!」というメッセージが。その純粋な言葉に、思わず胸が熱くなりました。

見上げると、夜空には大きなお月様。「私もこんな風に、誰かの人生に寄り添い、心から喜ばれる仕事をしていきたい」帰り道の夜風に吹かれながら、そんな決意を新たにした一日でした。

May the Force be with you. フォースとともにあらんことを。

追伸:アメリカで見た「始まり」と、海老名で看取る「終わり」

50年近く海老名の街を見守ってきたこの建物も、5月17日でその役割を終えます。

アメリカの巨大なシネコン(当時は日本に無かった新世界)を観た私が、偶然にも日本初のシネコン(イオンシネマ海老名・旧ワーナー・マイカル・シネマズ海老名)の最後を、同じ作品で看取るとは…。今でこそ日本にも当たり前にあるシネコンですが、1980年当時のアメリカで見たあの巨大な劇場の風景は、まさに『未来』そのものでした。あれから40数年。この場所で、再び同じフォースを感じていることに、不思議な縁を感じずにはいられません。

日々の雑感, 相続・遺言

トランプ氏狙撃事件に学ぶ「強かな安心」の設計図 —— 善意をシステムで完結させる知恵 「ステーキ2,600枚」を秒で寄付できた凄すぎる理由

人生の晩餐を台無しにしないための設計図づくりに作戦会議は欠かせない

Photo by Daniel Torok / Official White House Photo Copyright © 2026 President Trump holds court inside the Oval Office after the WHCD shooting

4月25日夜、ワシントン中心部のホテルで起きたドナルド・トランプ大統領の狙撃事件。
緊迫した映像の中で、私が注目したのは大統領の隣にいた女性、Weijia Jiang(ウェイジア・ジャン)氏の行動でした。CBS Newsの主任特派員であり、ホワイトハウス記者協会の会長も務める彼女は、銃声が響くパニックの中でもジャーナリストとしての職責を果たし、さらに中止が決まった直後、主催者として、2,600食分もの高級料理を即座に困窮者施設へ寄付する決断を下しました。

「善意」に頼る社会から「システム」が支える社会へ

日本であれば、「食中毒のリスクは?」「誰が費用を負担するのか?」といった責任や手続きの壁に阻まれ、結局は廃棄処分になっていたかもしれません。しかし、彼女には迷わず即決できる「裏付け」がありました。

アメリカという国は、多様な民族が争い、共存を模索してきた歴史ゆえに、法律や制度が驚くほど合理的かつ仔細に整っています。善意の行動を法的リスクから守る「良きサマリア人法」の存在や、有事の際の事前プロトコル(手順書)。これらが機能していたからこそ、彼女のサイン一つで即座に実行に移せたのです。

日本社会が直面する「阿吽の呼吸」の限界

これまでの日本は、同質性の高い社会の中で「言わなくてもわかる」「お互い様」という、いわば「阿吽の呼吸」による善意に頼ってきました。しかし、超高齢社会の進展で家族の形が変わり、外国人雇用の拡大で多文化化が進むこれからの日本において、従来の「曖昧な善意」は、時に「責任追及への恐怖」となって現場の判断を萎縮させてしまいます。
アメリカが積み上げてきた「合理的で強かなシステム」は、複雑な社会を生き抜くために不可欠な知恵といえるでしょう。

「まさかの備え」は、行政書士の仕事そのもの

このエピソードは、私が日々おこなっている相続や高齢者支援の仕事にそのまま当てはまります。

認知症の発症や突然の相続は、家族にとっての「日常の有事」です。その瞬間に、残された方々が迷わず最善の選択をするためには、ジャン氏が持っていたような「3つの要素」が欠かせません。

遺言書というシステム:争いを防ぎ、想いを繋ぐためのプロトコル

専門家の知識:法的リスクを回避し、安心を担保するバックアップ

任意後見という判断力:あらかじめ権限を託しておく仕組み

必要なのは「強(したた)かな安心」

仕組みを整えることは、決して冷たいことではありません。不確実な未来において、大切な人の「善意」や「想い」を確実に実行するための、最も温かい準備なのです。未来の日本がどんなに複雑な社会になっても、誰もが迷わず手を差し伸べられる。そんな「強(したた)かな安心」を、法的なデザインを通じて皆様と共に築いていきたいと考えています。

騒乱の中でステーキの行先を案じる必要がないように。あなたの人生の「大切な決断」が迷いなく実行されるための設計図を、一緒に描いてみませんか。

お手続きの最初の一歩は、こちらからどうぞ。

日々の雑感, 相続・遺言

94歳の父と語った「アメリカとイラン」――戦後を生き抜いた知恵を次世代へ繋ぐために

戦争がなかった時代ってあるのだろうか

今朝、94歳になる私の父と、アメリカやイラン、そして緊迫する世界情勢について話をしました。
父は、太平洋戦争を直接経験した「生きる証人」です。戦前の重苦しい空気、焦土からの復興、そして戦後経済の驚異的な躍進。そのすべてを肌で感じてきた父を前に、私は自分なりの知識を総動員して、今の世界で起きていることを話しました。

「結局は、国々の利害関係と、目に見えない感情のぶつかり合いなんだと思う」
「北朝鮮が叩かれないのも、イランが狙われるのも、アメリカの経済的利益や内政事情、そして大国間の複雑なパワーバランスの結果に過ぎないのかもしれない」

私の言葉に、父は「そうか……」と一言、深く頷くような、あるいは何かを思案するような返事をしました。

民主主義の「怖さ」と向き合う

トランプ氏のようなリーダーが選ばれる背景には、国民の「実利」があります。品格や正義よりも、今日、そして明日の生活が良くなるかどうか。得をするから、危うさを承知で票を投じる。それはある意味で、民主主義が持つ「冷徹な一面」です。
しかし、戦後という激動の時代を「綺麗事だけでは生き抜けない」と知っている父の世代から見れば、今の世界はどう映っているのでしょうか。

次世代へ何を「伝承」すべきか

今、ウクライナの惨状や、日本国内での憲法改正をめぐる議論など、私たちの子供や孫の世代に直結する大きな変化が起きています。
戦争を知らない世代が、さらに「戦争を全く知らない子供たち」へ、何を伝えていくべきか。
行政書士として、多くの高齢者の方々の人生の幕引きや財産管理をお手伝いする中で、私は強く感じることがあります。
私たちが遺すべきは、預貯金や不動産といった「形ある資産」だけではありません。
父のような世代が命がけで守り、築き上げてきた「平和の尊さ」という目に見えない価値を、いかにリアリティを持って次世代に手渡せるか。それが、今を生きる私たちの大きな責任ではないでしょうか。

高齢者の皆様へ、私からのメッセージ

このブログを読んでくださっている高齢者の皆様、そしてそのご家族の皆様へ。
皆様が歩んできた道のり、その時々に感じた喜びや痛み、そして「戦後の何もない時代からどう立ち上がったか」という記憶は、今の日本にとって唯一無二の宝物です。
「昔の話をしても、若い人は興味を持たないだろう」と諦めないでください。
今の複雑な世界を解き明かすヒントは、案外、皆様が経験された「生きた歴史」の中に隠れているものです。
ぜひ、お孫さんや周りの若い世代に、皆様の言葉で伝えてあげてください。
「当たり前の日常がいかに尊いか」を。
私も一人の行政書士として、皆様の大切な想いや歴史が、争いのない形で次世代へ繋がっていくよう、精一杯のサポートを続けてまいります。

本当の意味の「継承」を

それと、もうひとつ…。私たちは、日本人の「礼儀正しさ」や「清潔さ」を誇りに思いますが、それは戦後の焼け跡で必死に泥を這いずり、生き抜いた父たちの世代が築いた『余裕』の結果であることを忘れてはいけないと感じます。
海外の混沌に対し、かつて自分たちもそうであったという眼差しを持つこと。それが、本当の意味で歴史を継承するということなのかもしれません。

日々の雑感, 相続・遺言, 高齢者支援

大学時代の友人と健康話に花咲じいさん〜還暦のワインは、現世の甘露か、それとも〜

5日間の断酒を経て、ついに現世の甘露(ワイン)と再会。この後、私の記憶の断片はトラットリアに置き去りにされました。(写真はイメージですが、楽しいひと時の空気感が伝われば幸いです)
  

昨日は、大学時代の友人と久々に一献。
当初は11月上旬に約束していたはずが、お互いの「急な体調不良」や「家庭の諸事情」をパズルのように組み合わせているうちに、気づけば半年も経っておりました。時の流れは、まさに光陰矢の如し。
再会するやいなや、乾杯の挨拶もそこそこに飛び出したのは、やはり「健康」の話題です。
かつては恋や将来の夢を語り合った口から、今や「人間ドックの判定」や「肝数値の推移」が、まるでお経のように淀みなく流れ出します。
還暦を過ぎた我々の身体は、もはやビンテージカー。こまめなメンテナンスなしには、車検(生存確認)も通らぬ身の上なのです。

相続・遺言・家族信託で整える「人生の後半戦」

あまりの楽しさに、記憶の断片を新百合ヶ丘のトラットリアに置き忘れるほど豪快に飲んでしまいました。
訳あって5日間の断酒に耐えた後の赤ワインは、五臓六腑に染み渡る、まさに禁断の果実。
小田急線に揺られて平塚へ帰宅し、シャワーを浴びてベッドに横たわれば、そこはもう涅槃(ねはん)の境地……。
翌朝まで一度も目覚めることなく、泥のように眠り続けました。

目指すは持続可能な支え合い

そう、昨日はあんなに熱心に「健康」の話をしたはずでした。
しかし、そんな健康談義の裏側で、ふと考えさせられたことがあります。今の日本は「全世代対応型」の社会保障を目指し、刻一刻と制度が変化しています。
2024年4月からは、75歳以上の方の後期高齢者医療制度も改正されました。負担能力に応じて保険料を調整する仕組みが導入され、「支え合い」の形がより鮮明になっています。一方で、出産育児一時金の増額など、若い世代への支援も手厚くなりました。

こうした時代の流れに触れるとき、私は仏教の「自利利他(じりりた)」という言葉を思い浮かべます。
「自らの幸せ(自利)を願うのであれば、まず他者の幸せ(利他)のために尽くしなさい」。また、ヒンドゥー教に伝わる「すべての生命は、目に見えない糸でつながっている」という宇宙観も、今の社会保障のあり方に通じるところがあるかもしれません。

「未来への準備」は心の安らぎへ

次世代を育むことは、巡り巡って、私たちが安心して暮らせる未来を耕すことでもあります。
しかし同時に、これまで社会を支えてきたお年寄りの方々が、誇りを持って穏やかに過ごせる世の中であってほしいとも切に願います。
健康で楽しく友と笑い合える日々に感謝しながら、私たちは少しずつ「人生の後半戦」の準備を整えていく必要があります。

例えば、手軽に始められる「自筆証書遺言」の作成や、万が一の認知症に備えて財産を託す「家族信託」など、具体的な一歩を踏み出す時期なのかもしれません。
相続や遺言といった「未来への準備」も、実は「自利利他」の精神のひとつ。
大切な人たちが困らないように整えておくことは、自分自身の心の安らぎにもつながるのです。

次に友人と会うときも、また笑顔で「健康の話」ができるように。
そんなささやかな幸せを、行政書士として、一人の友人として、守っていきたいと感じた宴(うたげ)でした。

日々の雑感

登録予定日の朝に知った、まさかの「乱れ」

ハイウェイのドライブは思わぬところで渋滞へ巻き込まれるもの、逃げ場はない (Autobahn von Nürnberg nach Prag)

「期待の朝」の出来事

4月15日。本来であれば、ついに「行政書士」という新たな次元へとアセンションを果たす記念すべき日……のはずだった。
朝から連合会の検索システムにアクセスし、リロードを連打する。
しかし、画面に私の名は現れない。
門前払いされたかのような、春の朝とは思えぬうすら寒い孤独が、指先に伝わってきた。

事務局への電話と判明

ヨーガの本質とは己への回帰、限界を知ることだ、と深呼吸を一つ。
意を決して事務局へ電話を投じた。

「手続きは順調で、5月1日登録予定となっております」――。
受話器から流れてきたのは、慈悲なき確定事項であった。

3月初旬の登録入会説明会と同時に申請を済ませ、自分としては万全を期したつもりだった。
だが、年度末という名の巨大な「カルマ」の渦には、個人の熱量など無力だったようだ。

私のやる気だけが、春の穏やかな時空を所在なげに漂っている。

理性を失いかけた自分を笑う

あまりの虚無感に苛(さいな)まれ、一時は「無頼旅再開」とばかりにバックパックを背負いかけた。
しかし、ふと思い出したのは、1月下旬にインドのドミトリー、その薄暗い二段ベッドの下で密かに合格を知ったあの日のことだ。

人生、予定通りにいかないことなど、もう嫌というほど味わってきた。
ようやく辿り着いた合格という光の中にいてもなお、ふと「もしそうでなかったら」という影を隣に感じてしまう。
けれど、その影が濃ければ濃いほど、今手にしている光の温かさはより鮮烈に増幅されていくのだ。

あの瞬間の不思議な感覚は、どこからか届いた「まだ早い、もっと精神を研ぎ澄ませ」という啓示だったのかもしれない。

前向きな猶予期間

私の乱れた気配を察したのか、妻が「国内旅行でも行ってきたら?」と、菩薩のような言葉をかけてくれた。あえて、「国内」というところがいじらしい。

5月29日の証票交付式まで、天がくれた少し長めのプロローグ。
この「宙ぶらりん」なステータスさえも、いつかは愛おしく感じられることだろう。

予期せぬ停滞に、静かに感謝を

5月1日、名簿という名の「選ばれし者のリスト」に名前が載る瞬間を、私はどこで迎えるのか。
新緑のエネルギーを吸い込み、開業に向けてのんびりと刃を研ぎ直すとしよう。
まあ、人生なんて、そんなものだ。

……またひとつ、待たされる側の『痛み』と焦燥を知った。
この痛みを知る者として、5月からは誰かの盾となり、人生を支える柱となる。そのための準備期間だ。
ありがとうよ。

日々の雑感, 高齢者支援

サクラ・アウト老(ロウ)の煩悩と、雑草という名の悟り

葉の混じった桜も、またオツなもの、季節は巡る。

今年の春は、どうやら「桜」という名の魔法に深く心酔してしまったようです。
二月の河津桜を皮切りに、九段下の夜桜を二週間もストーキングし、箱根、山北、湘南平、そして秦野のさくらみち……。目に入る桜という桜をスマホに収め、まるで自分の手柄かのようにソーシャルメディアに放流しては、独り悦に入っておりました。

「映え」という名の煩悩に突き動かされ、自慢げに投稿を繰り返すその姿。端から見れば、老いを受け入れつつも抗う、自意識過剰な「サクラ・アウト老」の完成です。

草むしりもまた春の風物詩

しかし、祭りは唐突に終わります。葉桜とともに訪れたのは、実家の庭という「剥き出しの現実」でした。妻と二人、無心で草をむしる。先ほどまで愛でていた桜と同じ「植物」のはずなのに、こちらは容赦なく排除の対象となる。この理不尽な線引きこそが、人間の「業(ごう)」というものでしょうか。

プロの植木屋の手によって見違えた庭を眺め、その圧倒的な生命力の前に、私はただ白旗を振るしかありませんでした。抗ってはいけない。自然の勢いには、ただ伏して従うのみ。

かつて昭和天皇は「雑草という草はない」と仰ったそうです。どんな名もなき草にも名前があり、命がある。自分の都合で「愛でるもの」と「排除するもの」を仕分けていた己の浅ましさを、抜いた草の山を前に思い知らされました。
なすがままに、名もなき命を面白がる。そんな諦念(ていねん)にも似た境地が、実は一番贅沢で、かっこいい生き方なのかもしれない。そんなことが分かり始めてきた年代。

「なすがまま」にも一工夫

作業の後の冷えたワインが、驚くほど五臓六腑に染み渡ります。多くの「終い支度」をお手伝いすべき行政書士として人生もまた、庭の手入れに似ていると感じます。

生い茂った不安や執着を整理し、自分にとって本当に大切な「桜」だけを心に残す作業。

時にはプロの手を借りて、すっきりと風通しを良くしておく。
「なすがまま」に、軽やかに余生を楽しむためには、実は少しだけ「事前の整理」が必要だったりするのです。

庭の草むしりのついでに、心の「終活」も少しずつ。グラス片手に渋味の余韻に浸りながら、ついそんなことを考えました。

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