サクラ・アウト老(ロウ)の煩悩と、雑草という名の悟り

今年の春は、どうやら「桜」という名の魔法に深く心酔してしまったようです。
二月の河津桜を皮切りに、九段下の夜桜を二週間もストーキングし、箱根、山北、湘南平、そして秦野のさくらみち……。目に入る桜という桜をスマホに収め、まるで自分の手柄かのようにソーシャルメディアに放流しては、独り悦に入っておりました。

「映え」という名の煩悩に突き動かされ、自慢げに投稿を繰り返すその姿。端から見れば、老いを受け入れつつも抗う、自意識過剰な「サクラ・アウト老」の完成です。

草むしりもまた春の風物詩

しかし、祭りは唐突に終わります。葉桜とともに訪れたのは、実家の庭という「剥き出しの現実」でした。妻と二人、無心で草をむしる。先ほどまで愛でていた桜と同じ「植物」のはずなのに、こちらは容赦なく排除の対象となる。この理不尽な線引きこそが、人間の「業(ごう)」というものでしょうか。

プロの植木屋の手によって見違えた庭を眺め、その圧倒的な生命力の前に、私はただ白旗を振るしかありませんでした。抗ってはいけない。自然の勢いには、ただ伏して従うのみ。

かつて昭和天皇は「雑草という草はない」と仰ったそうです。どんな名もなき草にも名前があり、命がある。自分の都合で「愛でるもの」と「排除するもの」を仕分けていた己の浅ましさを、抜いた草の山を前に思い知らされました。
なすがままに、名もなき命を面白がる。そんな諦念(ていねん)にも似た境地が、実は一番贅沢で、かっこいい生き方なのかもしれない。そんなことが分かり始めてきた年代。

「なすがまま」にも一工夫

作業の後の冷えたワインが、驚くほど五臓六腑に染み渡ります。多くの「終い支度」をお手伝いすべき行政書士として人生もまた、庭の手入れに似ていると感じます。

生い茂った不安や執着を整理し、自分にとって本当に大切な「桜」だけを心に残す作業。

時にはプロの手を借りて、すっきりと風通しを良くしておく。
「なすがまま」に、軽やかに余生を楽しむためには、実は少しだけ「事前の整理」が必要だったりするのです。

庭の草むしりのついでに、心の「終活」も少しずつ。グラス片手に渋味の余韻に浸りながら、ついそんなことを考えました。

葉の混じった桜も、またオツなもの。季節は巡る。

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