
憲法記念日が過ぎ、世の中の喧騒が少し落ち着いたところで、あらためて「この国のカタチ」について、遠い目をして考えてみました。
ぼうっと眺めて、感じる危うさ
5月3日、世間がゴールデンウィークの浮かれモードに包まれる中、私は一人、憲法という名の「驚くほど薄く、しかし極めて濃厚な一通の契約書」をめくっては、その条文をぼうっと眺めていました。
そこで頭をよぎるのは、昨今のあまりに前のめりな改憲議論です。武器輸出の解禁や防衛予算の大幅増など、本来は国会で熟議すべき重要事項が「閣議決定」というショートカットで次々と進んでいく。改正そのものが自己目的化したような今の世相は、まるでブレーキのない車を全力で走らせようとしているかのようで、底知れぬ危うさを感じます。
一つのベクトルに向かって、危うい加速
戦後八十年余、過去を振り返ってみても、これほどまでに異様な喧騒(けんそう)が渦巻く状況は珍しいものです。改憲を急ぐ「前のめりな人々」と、その熱量に煽られる人々。よく分からないまま追随する層がいれば、この混乱を好機とばかりに利用せんとする者たちもいる。それぞれの思惑はバラバラなはずなのに、なぜか全体としては「改正ありき」という一つのベクトルに向かって、危うい加速を続けている。見ようによっては、「緊急事態条項」や「9 条」の議論が、本質を置き去りにしたまま、単なるムードや多数決の論理だけで押し切られようとしている感は否めません。
民主主義の危うさは「多数決が常に正しいとは限らない」という点にあります。
勢いに任せて一度手放してしまった権利や、権力を縛るための「制限のタガ」を元に戻すことは、歴史を紐解けば極めて困難であることがわかります。
日本国憲法が持つ、どんな時代の変遷にも揺るがない「普遍性」の尊さは、紛れもない事実なのです。
憲法を「スマホ感覚」でアップデートしたがる人々
近年の傾向としてありがちな、ネットの「論破師」たちが、憲法という最高法規をスマホのOSアップデートか何かのように「早く新しくしろ」と急かす姿には、少々めまいがします。
中身のコード(条文)も読まずに、「最新版なら良くなるはず」と思い込むその無邪気さ。
「書類の不備」をチェックする身からすれば、そんな軽やかなノリによる「契約変更」には、なかなか首を縦には振れません。
報じられない「トリセツの書き換え」
本来、国家の根幹に関わる「緊急事態条項」の危うさや「9条」の矛盾こそ、新聞や公共放送が「中立な立場」で、徹底的に解剖して国民に伝えるべきではないでしょうか。
しかし、今年の憲法記念日の報道を見渡しても、目に映るのは「改憲に意欲」という政局ニュースばかり。
条文の中に潜む、かつて某国が独裁の足がかりとした「全権委任法」に似た危うい構造や、二枚舌のような論理の綻びを、正面から検証する姿勢はどこへ消えてしまったのでしょう。
知のインフラであるはずの放送波を削ることに汲々とする一方で、これほどまでに重要な「法の不備」をスルーし続けるメディアの姿には、一抹の寂しさを覚えます。

八十八夜、お茶と「平和の味」
私たちがすべきことは、感情に流されて「トリセツ」を書き換えることではありません。まずは中身を深く知り、法治国家としての筋を通し続けること。
人間は愚かだからこそ、学び続ける必要があるのです。次世代には、何年経っても色褪せない「生き残るための知恵」を手渡したい。
……おっと、いけない。柄にもなく、つい弁が過ぎてしまいました。
夏も近づく八十八夜。今はただ、淹れたてのお茶を啜り、柏餅を頬張る。
そんな平穏なひとときが、実はこの「濃厚な契約書」によって守られているのだと、ふうっと一息つきながら、ただ感謝して噛み締めています。
マスコミが伝えない「餅で包まれたあんこ(矛盾だらけの改憲案)」の喉に絡みつくような不思議な甘ったるさを、お茶で流し込みながら。
茶のお代わりを飲み干す頃には、少しは穏やかな気持ちで明日を迎えられるでしょうか。
そんなことを思う、憲法記念日の午後でした。