相続・遺言

サクラ・アウト老(ロウ)の煩悩と、雑草という名の悟り

葉の混じった桜も、またオツなもの、季節は巡る。

今年の春は、どうやら「桜」という名の魔法に深く心酔してしまったようです。
二月の河津桜を皮切りに、九段下の夜桜を二週間もストーキングし、箱根、山北、湘南平、そして秦野のさくらみち……。目に入る桜という桜をスマホに収め、まるで自分の手柄かのようにソーシャルメディアに放流しては、独り悦に入っておりました。

「映え」という名の煩悩に突き動かされ、自慢げに投稿を繰り返すその姿。端から見れば、老いを受け入れつつも抗う、自意識過剰な「サクラ・アウト老」の完成です。

草むしりもまた春の風物詩

しかし、祭りは唐突に終わります。葉桜とともに訪れたのは、実家の庭という「剥き出しの現実」でした。妻と二人、無心で草をむしる。先ほどまで愛でていた桜と同じ「植物」のはずなのに、こちらは容赦なく排除の対象となる。この理不尽な線引きこそが、人間の「業(ごう)」というものでしょうか。

プロの植木屋の手によって見違えた庭を眺め、その圧倒的な生命力の前に、私はただ白旗を振るしかありませんでした。抗ってはいけない。自然の勢いには、ただ伏して従うのみ。

かつて昭和天皇は「雑草という草はない」と仰ったそうです。どんな名もなき草にも名前があり、命がある。自分の都合で「愛でるもの」と「排除するもの」を仕分けていた己の浅ましさを、抜いた草の山を前に思い知らされました。
なすがままに、名もなき命を面白がる。そんな諦念(ていねん)にも似た境地が、実は一番贅沢で、かっこいい生き方なのかもしれない。そんなことが分かり始めてきた年代。

「なすがまま」にも一工夫

作業の後の冷えたワインが、驚くほど五臓六腑に染み渡ります。多くの「終い支度」をお手伝いすべき行政書士として人生もまた、庭の手入れに似ていると感じます。

生い茂った不安や執着を整理し、自分にとって本当に大切な「桜」だけを心に残す作業。

時にはプロの手を借りて、すっきりと風通しを良くしておく。
「なすがまま」に、軽やかに余生を楽しむためには、実は少しだけ「事前の整理」が必要だったりするのです。

庭の草むしりのついでに、心の「終活」も少しずつ。グラス片手に渋味の余韻に浸りながら、ついそんなことを考えました。

相続・遺言

平塚の波音と湯気の向こうに、5000万ソロの影

平塚の海岸にて、漂着した流木を玉座に、昇りゆく朝日を拝む無頼の肖像。江の島の灯台が、まるで「超ソロ社会」を優しく見守る監視塔のように、朝焼けの中に佇んでいます。

平塚の砂浜に打ち寄せられた流木に腰を下ろし、相模湾から昇る朝日を拝む……。
そんな「丁寧な暮らし」風のポーズを決めつつも、頭の中では「老後の孤独」と「ラオシャンのタンメン」が交互に押し寄せるのが、令和を生きるアラ還の日常です。

今や、若者の二人に一人が独身という「超ソロ社会」。自由を謳歌する一方で、ふとした瞬間に忍び寄る「身寄りなし問題」という名の砂粒のような不安。未婚に「離別・死別」を加えた独身者数は約5000万人に達しており、有配偶者数とほぼ同数です。
果たして私たちは、人生の幕引きをスマートにデザインできるのでしょうか。

今回は、平塚の海辺で独り、未来の安心をパッキングする「おひとり様」のための未来戦略について。行政書士の視点から、少しシュールに、かつ実務的に紐解いてみたいと思います

日本人の半分が独身になる時代

私の周囲にも、独身生活を謳歌している方は多くいます。今や、独身研究家という方がいて、その荒川和久(あらかわ かずひさ)氏によると日本人の半分が独身になる時代だそうです。これは、国勢調査などの公的な統計を元に算出・提唱している「超ソロ社会」に関する予測データが有力な出所です。

独身にも二種類あって、自らすすんで独身の「選択的非婚者」とそうでない「不本意未婚者」がいるそうです。前者は約20%で、残りは後者だそうです。
彼は「結婚しないと不幸」という呪いから脱却せよとも主張していますね。たしかに、平塚の街を歩いていても、二人に一人は「ソロ」なのだと思えば、独身の肩身が狭いなどという時代は終わったのかもしれません。

かつて七夕祭りの人混みの中で、きらびやかな竹飾りの影に隠れ、カップルたちの熱気に当てられていた日々が懐かしく思い出されます。今となっては一人、花水ラオシャンで酸味の効いたタンメンをすする時間こそが、至高のデトックス。澄んだスープに浮かぶ玉ねぎを無心で追いかけていると、煩わしい人間関係など、酢の力で溶けていくような気がいたします。とはいえ、新しく整備された「ひらつかシーテラス」を眺めれば、考え方は人それぞれ、そこには賛否両論の波が静かに打ち寄せています。

「自分じまい」の準備はいかに

少子化という大きなうねりはさておき、個人的に気になるのは、自分という存在の「店じまい」の方法です。介護、葬儀、そして遺された家。平塚の心地よい潮風に吹かれながらも、頭の隅をよぎるのは「私の最後の手続き、誰がやってくれるのかしら?」という、非常に現実的な砂粒のような不安でしょう。

そこで、私たち行政書士の出番でございます。「身寄りがない」ことは、決して心細いことではありません。むしろ、自分の最期を自分のセンスでプロデュースできる「自由」があるということ。「遺言書」で財産の行き先をスマートに決めたり、「死後事務委任」という契約で、葬儀や片付けをあらかじめプロに託したり。それは、七夕の短冊に願いを書くよりも、ずっと確実におのれの未来を守る儀式なのです。

ソロで生きる強さと、事務手続きによる安心感。平塚の海のように、穏やかで淀みのない余生をデザインするお手伝いができればと思っております。一度、あなたの「バックアッププラン」についてお話ししてみませんか。

法的な備えで安心の旅路を

太陽は、リア充にもソロにも平等に昇ります。ひらつかシーテラスを黄金色に染める朝焼けを眺めながら、私は確信しました。

独身という名の自由な海を漂うには、コンパスとなる「備え」が必要なのだと。
ラオシャンのタンメンが朝の胃袋に染み渡るように、法的な準備があなたの未来に安心を届けます。

「私の一生、これでいいのかしら?」という、形のない不安の雲が朝日に溶けていくまで。平塚の海辺で、あなたの声を静かにお待ちしております。

こうした社会の波の中で、ご自身やご家族の将来に少しでも不安を感じたら、まずは弊所へお気軽にお話をお聞かせください。おひとりさまの『これから』を一緒に考えるパートナーとして、誠心誠意サポートいたします。

高齢者支援

後見制度が変わる!「一生お任せ」から「必要な時だけ」のオーダーメイドへ民法改正。「自分らしく生きる」を支える新ルールとは?

政府は2026年4月3日、成年後見制度を抜本的に見直す民法改正案を閣議決定し、原則として一生続く「終身制」を廃止して期間限定の利用を可能にする。本人の意思尊重と利用促進を目的に、必要な事柄・期間だけ支援を利用しやすくする内容で、行政書士は制度設計や期間限定の支援において重要な役割を果たすと期待される。
詳細は朝日新聞デジタルを参照。

「成年後見制度って、一度始めたら死ぬまでやめられないんでしょ?」
「自分のお金なのに、自由に使えなくなるのは困る……」

そんな不安から、これまで制度の利用をためらっていた方に朗報です。これまでの後見制度は、いわば「フルタイム・一生継続」のガチガチなルール。しかし今回の改正で、「必要な時だけ」「特定の用事だけ」頼める、オーダーメイドな仕組みへと大きく舵を切ります。
「最後まで自分らしく、自分の意志でお金を使い、暮らしを決めたい」そんな方々にとって、この改正はまさに「味方」になる変化です。

ここが劇的に変わる!2つの新ルール

今回の改正で、特に注目してほしいのが、「期間」と「範囲」のカスタマイズです。

1.「一生お付き合い」から「必要な期間だけ」へ
これまでの後見制度は、一度始まると「ご本人が亡くなるまで」続くのが大原則でした。「ちょっと施設入居の手続きだけ手伝ってほしい」と思っても、一生分の費用や管理がセットでついてきたのです。改正後は、「この不動産を売却するまで」「老人ホームへの入居契約が終わるまで」といった具合に、期限を決めて依頼できるようになります。用件が済めば、後見人との契約もスッキリ終了。これなら「一生涯続けなければいけない」ような窮屈さはありません。

2.「全部お任せ」から「困ったことだけ」へ
これまでは、後見人がつくと預金通帳から実印まで、財産管理のすべてを委ねる形が一般的でした。しかし、これからは「この銀行口座の管理だけ」「この契約手続きだけ」と、サポートが必要な範囲をピンポイントで指定できるようになります。「自分にできることは自分でやり、苦手な事務作業だけプロに外注する」。そんな、まるで秘書を雇うような感覚で制度を使えるようになるのです。

任意後見 vs 改正後の法定後見:どう使い分ける?

今回の改正で「法定後見」が柔軟になるとはいえ、忘れてほしくないのが「任意後見」の存在です。「任意後見」は、あなたの『こだわり』を形にするもの元気なうちに、「誰に」「どんな生活を支えてほしいか」を公正証書で契約しておく制度です。
自分の趣味や、お金の使い道、最後をどう迎えたいかまで、「あなたの想い」を100%反映できるのは、やはり任意後見です。「改正後の法定後見」は、あなたの『困った』をピンポイントで助けるものもし事前に準備をしていなくても、「不動産の売却だけ」「施設入居の手続きだけ」と、必要な時だけプロの力を借りられるようになります。

つまり、「将来の安心を自分でデザインしたい」なら任意後見をベースにし、万が一の想定外の事態には新しくなった法定後見でスポット的に補う。そんな「いいとこ取り」ができる時代がやってきます。

自分らしい老後のための「設計図」を

今回の民法改正は、国が「もっと個人の意思を尊重しよう」と舵を切った大きな一歩です。「一度始めたらやめられない」という不安が消え、後見制度は「あなたを縛る鎖」から、「自由を守るためのツール」へと変わります。
自由度が高まるからこそ、大切になるのは「どのタイミングで、どの制度を、どう使うか」というあなただけの設計図です。「まだ元気だけど、将来のことが少し気になる」「自分らしい生活を最後まで守り通したい」そんな想いがある方は、ぜひ一度ご相談ください。新しくなる制度を賢く使いこなし、あなたが主役の人生を最後までプロデュースする。そのお手伝いをするのが、私たち行政書士の役割です。

今後のスケジュール:いつから変わる?

今回の閣議決定を受け、6月下旬にもパブリックコメントに付され、広く意見が募られます。その後、さらなる議論を経て、2026年度の法改正を目指すスケジュールとなっています。

「今」できること…

制度が変わるのをただ待つ必要はありません。改正の方向性が「本人の意思尊重」へと明確になった今こそ、今のうちから「自分ならどうしたいか」を考え、任意後見などの準備を始めておくことが、新制度を賢く使いこなす近道です。

相続・遺言

お墓の不安を解消する、法事の席でこぼれた「誰にも迷惑をかけたくない」という本音

「この話に枝から枝にいつしか咲いたよ 見事な花が」不安を安心へ。枝から枝へと言葉を紡げば、いつしか心に見事な花が咲くものです

将来に関する切実な不安

今日、親戚の法事に参列しました。久々に顔を合わせた親類たちと静かに語らう中で耳にしたのは、将来のお墓に関する切実な不安でした。

「自分がいなくなった後、このお墓は誰が見てくれるんだろう?」

「残された子どもたちに、あとの手続きで苦労をさせたくない……」

共通していたのは、周りを思うがゆえの「誰にも迷惑をかけたくない」という、優しくも切実な願いでした。
法事のあとの直会(なおらい)では、そんな不安が枝から枝へと移るように広がり、いつしか解決への糸口を探る対話の花が見事に咲いたのです。

「その不安」をどう解消するか:墓じまいと改葬のサポート

まず、多くの方が誤解されがちなのがお墓の仕組みです。実はお墓の土地は「所有」しているのではなく、あくまで「使用権」を借りている状態に過ぎません。そのため、お墓を使い終えるときにはお寺や霊園へ返還する必要があります。

しかし、そのために必要な「改葬許可申請」などの行政手続きは、非常に複雑で手間がかかるものです。そこで私たち行政書士は、役所への書類提出やお寺とのやり取りを代理し、スムーズな墓じまいをサポートします。

例えば、最近増えている樹木葬や海洋散骨など、管理の負担が残らない「永代供養」への切り替えを検討する際も、事務手続きの面からお力添えが可能です。

「死後の片付け」をあらかじめ予約する:死後事務委任契約

また、お墓のこと以上に心配されるのが、亡くなった直後の実務的な片付けです。
「家の片付けや役所の手続きを誰に頼めばいいのか」という不安に対しては、「死後事務委任契約」が大きな支えとなります。

これは、葬儀の手配から遺品整理、公共料金の解約、さらにはSNSなどのデジタル遺産の整理に至るまで、あらかじめプロである行政書士に任せておく契約です。これを結んでおくことで、親族に実務的な負担を一切かけることなく、ご自身の希望通りに人生を締めくくることができます。

「もしも」の時に備える:見守りと遺言のセット

さらに、将来への不安は亡くなった後だけではありません。「元気なうちはいいけれど、もし認知症になったら? 財産の管理はどうなるの?」といった声も聞かれました。

そのような場合には、「任意後見契約」や「遺言書の作成」をセットで備えることをお勧めしています。「親族には、ただ『思い出話』に花を咲かせてほしい。面倒な手続きはプロに任せてあるから大丈夫」と言い切れる状態を作ることが、ご自身にとっても周囲にとっても最大の安心材料になります。

結びに:一人で抱え込まず、プロという選択肢を

「誰にも迷惑をかけたくない」という思いが強い方ほど、つい一人で悩み、動けなくなってしまうものです。しかし、行政書士はその想いを「契約」という形にして確実に守る伴走者です。

親族だからこそ、かえって言いにくいこともあるでしょう。そんなときは、まずはプロという選択肢を頼ってみませんか。
法事の日の空に咲く花のように、あなたの心にある不安も、きっと晴らしていくことができるはずです。

日々の雑感, 高齢者支援

消えた中波の砂嵐、デジタル化の憂鬱

AMラジオの雑音を友にする

遠ざかる「砂嵐」の音と、変わりゆく放送の姿

雨続きの花冷え、窓の外はどんよりとした灰色。

2026年3月29日、NHKラジオ第2放送がひっそりとお隠れになりました。

その最大の理由は、NHK全体の「経営のスリム化」と「メディアのインターネット移行」。
実は、NHKだけでなく民間放送(AM局)も大きな岐路に立っています。
現在、全国の民放AM局の多くが、2028年までにAM放送を休止し、FM放送(ワイドFM)へ一本化することを目指しているそうです。

この「切り捨てられ感」、中波放送の温もりを知る世代としては、胸の奥がチリチリと焼けるようです。

「心の拠り所」を社会の隙間に落とさないために

一人暮らしで、AMラジオを友にする高齢者の方々は、どう思われるでしょうか。

私の生業である「高齢者支援」の現場でも、これは他人事ではありません。
支援の本質は、書類を整えること以上に、その人の「心の拠り所」を社会の隙間に落とさないこと。

デジタルの荒波に、アナログの「通訳」を添えて

でも、嘆いてばかりいても、何も生まれてはこないし、湿っぽい顔は、士業としての名が廃ります。
ここはひとつ、アナログの深みとデジタルの荒波の両方を知る60代の私が、お節介を焼くしかないのでしょう。

「ポッドキャストって、要は録音されたラジオですよ」
「サブスクは、無限に流れる有線放送みたいなもんです」

行政書士という仕事も、難しい法律の皮を剥いで、分かりやすく伝える翻訳者のようなもの。
そんな風に、ハイテクの皮を剥いで、皆さまに「新しい楽しみ」を強引にでもねじ込んでいく。
それが、激動の時代に挟まった私なりの、ささやかな「お手伝い」なのかもしれません。

いつの間にか雨は止み、雲の隙間から春の光が。
それでも私は、ラジオの向こう側にあった『誰かと繋がっている感覚』を、デジタルという新しい手段で提供し続けたい

おセンチな気分を脱ぎ捨てて、さて、次はどのサブスクでディランを楽しみましょうか。
指先一つで思い出にアクセスできる便利さを、少し呪いながらも、ちゃっかり享受して生きていこうと思います。

参考:NHKラジオ再編のお知らせ

相続・遺言

孤独を「孤高」へ昇華させる、大人のためのお守り

四月、すべての始まり。
葉桜さえ芽吹けど、雨はしとしと、しとぴっちゃんと降り止まず、心身に孤独のカビが繁殖しそうな寒さです。

一昨年施行された「孤独・孤立対策推進法」。国がわざわざ「孤独は有害」と定義した事実に、自由を謳歌する身としては背筋に冷たいものが走ります。
統計を見れば、独居世帯はうなぎのぼり。タワマンの灯りの数だけ、虚無を抱えてスマホを凝視する魂があると思うと、目眩がいたします。

挨拶のない日常に安心のお守りを

自由でリラックスできる社会の裏側で、地域との繋がりは希薄。
挨拶のない日常という「無菌状態」は、高齢化とともに、ずしりと重く身に応えてくるはずです。

当然、行政も対策に奔走していますが、私たち行政書士ができること。それは、皆様が「おひとりさま」としての矜持を保ちつつ、安心してこの世を去るための「契約」という名の護符(お守り)を授けることです。

見守り契約:孤独という闇に、定期的な安否確認という「生存証明」の光を。

任意後見:「あれ、何だっけ?」と、綾小路きみまろさんのネタになる前に、備えあれば憂いなし。未来の自分への、最高に優しいギフトです。

死後事務委任:葬儀や遺品整理……魂の「出口戦略」を法的にガード。

人は一人で生まれ、一人で死んでいく。それは逃れられない摂理であり、あまりにも重すぎる永遠のテーマです。死に直面したときにその答えが出るのかは分かりませんが、せめて法的な「結界」だけは盤石に。孤独が「孤高」という名の高潔なものに変わるよう、全力で見守らせていただきます。

こうした社会の波の中で、ご自身やご家族の将来に少しでも不安を感じたら、まずは弊所へお気軽にお話をお聞かせください。おひとりさまの『これから』を一緒に考えるパートナーとして、誠心誠意サポートいたします。

日々の雑感, 高齢者支援

高齢者の「制度」を「納得」に変える、一番身近な支援

先日、父のもとに、帯状疱疹ワクチンの利用券が届きました。
行政からの通知は、一枚のはがきに必要な情報が集約されており、非常に効率的で洗練されたレイアウトだと感じます。
しかし、制度として正確であればあるほど、高齢の当事者がその内容を短時間で正しく理解するのは、想像以上にハードルが高いという現実もあります。

「生ワクチン」と「不活化ワクチン」、効果の差はどこにあるのか。副反応はどうなのか。そして、高齢の体に2回接種する負担はどの程度なのか。

行政書士として高齢者支援を掲げていながら、いざ自分の親のこととなると、最適な「解」を見つけるのは案外難しいものだと実感しました。

行政のホームページを参考に作成

検討の末、私たちが選んだのは「生ワクチン」でした。高い予防率を追求するよりも、体への負担の少なさと、1回で済む手軽さを優先したのです。
「万が一の時にひどくならないための、2,700円のお守り」
そう伝えると、父も心から納得した様子でした。

制度の枠組みを正確に伝えるだけでなく、その方の「今」の生活や体調にどう寄り添うか。

今回の経験は、これからの高齢者支援の仕事にも通ずる、大切な視点を再確認させてくれる出来事となりました。行政が用意してくれた制度という「器」に、私たち専門家が「納得」という中身を注ぐ。
それこそが、行政書士としてできる地域への恩返しではないかと考えています。

日々の雑感

癒しの偶像、ヘルパーズ・ハイ

「癒やしの偶像」ペコちゃん。その視線の先にあるのは…

本日は身内の生誕を祝うべく、不二家へと足を運びました。
店頭では、いついかなる時も変わらぬポーカーフェイスで舌を出すペコちゃんが迎えてくれます。あの計算し尽くされた可愛さに、一瞬でこちらの自我が吸い取られそうになりました。

さて、バースデーケーキを無事に確保し、店内を見渡すと、そこには懐かしのミルキーやルックチョコレートの群れ。眺めているうちに、私の脳内には日ごろお世話になっている方々の顔が、まるで数珠つなぎのように浮かんできたのです。摩訶不思議。これこそ、不二家がもたらす「恩返しの連鎖」でしょうか。

「この方にはパラソルチョコレートの癒やしを」「あの方にはカントリーマアムの母性を」……。
次々と恩人たちへの献上品を物色し、両手にお菓子を抱えて帰路につく私は、さながらサンタクロースか、はたまた「徳を積んだ直後の修行僧」のような、清々しくも悠々たる高揚感に包まれておりました。

普段、スーパーでワインや酒といった、己の煩悩を鎮めるための「生存物資」を買い出しに行く際の、あの生臭い達成感とは明らかに異なります。この多幸感を何と呼べば良いのでしょう。インドの「プラサード」の精神に近いのか、あるいは仏教における「布施」という名の徳行(徳ポイントの加算)なのか……。

帰り際、ショーケース前に1人佇むペコちゃんの頭をそっとなでて帰途につくと、まだ不思議なご機嫌モードが続いています。「ミルキーはママの味」に感謝。

※プラサード(Prasad)「神の恩寵」や「慈悲」を意味

外国人在留手続

箱根山中、春ぼらけ。思考を止めて「言語の迷宮」に揺られる

世界が交差する箱根の玄関口、小田原駅。飛び交う異国の言葉、重い荷物の調べ

窓の外では、咲き始めた桜が春霞に淡く溶け、箱根の山々はどこか「春ぼらけ」の様相を呈しております。そんな微睡(まどろ)むような陽気に誘われ、今月もまた、いそいそと箱根山に出かけてまいりました。

箱根の学び舎、心地よい距離感

月に一度、箱根の山中にあるコミュニティ・カレッジなるスポットへ、吸い寄せられるように足を運んでおります。

当初は、道に迷って途方に暮れる青い目の異邦人を優雅にエスコートするための「英語ガイド養成講座」……つまりは善行という名の徳を積む場所かと思っておりました。ところが、いざ潜入してみれば、そこは意外にも風通しの良い、スピリチュアルなほどに心地よい学び舎。愉快な面々と、まあ、適度な距離感を保ちつつ「ぼちぼち」と英語での交流を深めている次第です。

振り返れば、私と英語という愛憎相半ばする言語との付き合いも、妙に長くなってしまいました。

世俗の執着と「いっきゅうさん」への難路

そんな語学人生のハイライトを問われれば、中年の危機とでも申しましょうか、分不相応にも手を出した「英検1級」合格の瞬間かもしれません。動機など、いつだって世俗的なもの。ただ息子たちに、抗えない加齢に挑む「親父の背中」という名の哀愁を見せつけてやりたかった……それだけの執着です。

しかし、この「いっきゅうさん」への道のりが、まあ手強い。特に「面接」という名の対面儀式が、私を翻弄いたしました。今思えば、苦戦は宿命だったのでしょう。それまでの私は、血の通わない教科書の中の「死んだ英語」か、あるいはエゴをこねくり回した「オレ流」のデタラメな英語しか、口にしてこなかったのですから。

筆記さえクリアすれば、あとは口先三寸でどうにかなる。そんなふうに高を括っていた己の甘さは、もはや羊羹をあんこで和えたレベルでした。

言葉の輪廻、そして「降伏」という解脱

一回目は、ディベートという名の言葉の殴り合い。白人面接官に完膚なきまでに浄化(ノックアウト)され、己の未熟さを骨身に刻まれました。

二回目は、羞恥心をかなぐり捨て、圧倒的な語数で押し切る「全裸でマシンガン作戦」を展開。
しかし、これは無残な自爆に終わり、対話という概念を宇宙の彼方に置き去りにした私を、年配の女性面接官が、まるで見知らぬ未確認飛行物体でも見るかのような冷ややかな眼差しで凝視。あの、沈黙を煮詰めて憎悪を足したような「絶句顔」は、今も私の拭いがたい業(カルマ)として脳裏に焼き付いて離れません。まさに言葉の輪廻(りんね)、苦行の連鎖でした。

そして三度目の正直。ようやく啓示のように悟ったのは、見栄という鎧を脱ぎ捨て、淡々と、等身大の言葉で語るという境地でした。誠実というか、もはや「降伏」に近い真摯さで臨み、合格という名の慈悲(じひ)を、「させていただいた」のです。

やはり、思考は毒。感じることこそが真理。自我を捨て、音と一体となる三摩地(サンマディ)の境地。※「三摩地(サンマディ)」:瞑想が深まり、心身が統一された恍惚状態のこと

多様な言語が飛び交うインド、チャール・ミナール周辺 Char Minar, Hyderabad India

万象の英語、自分という名の開き直り

今でもAFN(米軍放送)を生活のBGMとして垂れ流し、時折、旅に出れば異国の方と接触を図ってはおりますが、しょせんは「言葉」という頼りないツール。喋れば喋るほど、隠しきれない語彙の癖や、自身の精神の底の浅さが、ぼろぼろと露呈してしまいます。

ですが、それでよろしいのでしょう。「自分は自分」という名の開き直りさえあれば、案外、この世の中も穏やかに回っていくような気がするのです。

だいたい、英語と一口に言っても、宇宙には星の数ほどの「英語」が漂っているのですから。
私は、あの巻き舌が唸りを上げる、まるでおもちゃ箱をひっくり返したようなカオスな「インド英語」を耳にするたび、たまらない高揚感を覚えてしまうのです。

迷宮の羅針盤として、新たな春を往く

思考を止め、春の柔らかな空気に身を委ねれば、かつてのトラウマも桜とともに散り急ぐ心地。
この心地よいカオスを、今はただ「ぼちぼち」と愉しむことにいたしましょう。

……さて、そんな悠長なことを申しておりますが、実はこの「愛憎相半ばする言語」を武器に、行政書士として新たな一歩を踏み出す決意をいたしました。
在留許可という名の迷宮に立つ、異邦の方々の「羅針盤」として。

あの日の私を救った「誠実さ」を胸に、迷える旅人の力になれたなら。
春光の折、箱根山でそう静かに念じているのです。

日々の雑感

偶然の織りなす不可逆な曼荼羅(まんだら)

人生とは、こうした無数のノミ跡が重なり合って成る伽藍のようなもの Ajanta Caves, India

待合室の静寂にインドの熱風が蘇る

病院の長い待ち時間、ふとスマートフォンの写真フォルダを遡ってみた。そこにあったのは、今年一月から二月にかけて彷徨ったインドの光景だ。

清潔だがどこか空虚な待合室で、一枚一枚の写真をめくるたびに、忙しさに紛れて忘れていたはずの特有の熱気や埃の匂いが鮮やかに蘇ってくる。

当初はのんびり過ごすつもりだったが、蓋を開けてみれば心地よい刺激に満ちた、実に濃密な一ヶ月の旅であった。
帰国後の喧騒に追われ、これまで掌の中の記録を反芻する余裕さえ失っていたのだ。

指で画面をなぞれば、そこには実に多様な人間たちの顔があった。

そもそも、旅の緒からして不穏であった。

欠航という名の大いなる配慮

Transfer at Indira Gandhi International Airport (New Delhi, the capital of India)

エアインディアが「機材繰り」という名目のもと、航空会社が欠航を告げたのは、遅延を繰り返した挙句の夕刻であった。出鼻をくじかれた私は、その時、舌打ちの一つもしたかったはずだが、今となってはそれも、大いなる意志による「配慮」であったように思えてならない。

画面のなかで、懐かしい「演出家」たちが次々と現れる。

記憶の中の「演出家」たち

ハンピの古寺で共に夕日を眺めたディンプル。彼女のスクーターの背に揺られながら見た落日は、血のような朱であった。

理学療法士を目指す韓国から来たサニーとは、不思議なほどに再会を繰り返した。ホスペットの夜のバス停で彼女の顔を見つけた時の、あの磁石が引き合うような驚き。

あるいは、ベナウリム・ビーチのシバという老人は、流暢な日本語を操り、私の胸に深い余韻を残した。列車で食を分け与えてくれたテレビ局の老婦人、日本の思い出を語ったアフリカ出身の紳士、駅の冷たい床で夜を明かした際に語り合った若き大学講師、無数の偶然が重なり合っていた。挙げればきりがない。

ふと、私は眩暈(めまい)に似た戦慄を覚える。

些細な齟齬が造形する、不可逆な未来

もし、あの初日の欠航がなければ、私はこの誰一人とも邂逅(かいこう)していなかったはずなのだ。人生とは、つまるところ、こうした細部の集積によって構成される巨大な伽藍(がらん)ではないか。

私たちは、誕生という原初の偶然から始まり、進学や就職、あるいは伴侶との出会いといった、いくつかの大きな分岐点を選択して生きてきたつもりでいる。しかし、実際には「飛行機が飛ばなかった」という些細な齟齬こそが、不可逆的な未来を造形していくのである。

私が今、別の場所で別の誰かと笑っている可能性。その「存在したかもしれない私」の影が、ディスプレイの光を透過して、待合室の私を静かに揺さぶる。

人生という名の「無頼旅」を往く

人生は、計算の立たぬ「無頼旅」そのものである。私は再び画面を閉じ、次に私を待つ未知の欠航(アクシデント)へと、静かに想いを馳せた。

 ……そんな大袈裟なことを考えながら、ふと顔を上げると、会計を待つ人々の静かな日常がそこにあった。

予定通りにいかないのが旅。そして、おそらくは人生も。
次はどんな「想定外」が私を待っているのか。検査結果に安堵しながら、私はもう、次の無頼旅の空を見上げている。

上部へスクロール