偶然の織りなす不可逆な曼荼羅(まんだら)

病院の長い待ち時間、ふとスマートフォンの写真フォルダを遡ってみました。そこにあったのは、今年一月、一ヶ月にわたって彷徨ったインドの光景。

忙しさに紛れて忘れていたはずの熱風や埃の匂いが、一枚一枚の写真をめくるたびに、鮮やかに蘇ってきます。

病院の待合室という、清潔だがどこか空虚な空間で、私は本年一月のインド旅行の記録を紐解いていた。一ヶ月ほどの旅であったが、帰国後の喧騒に紛れ、掌の中のスマートフォンを反芻する余裕さえ失っていたのである。
指で画面をなぞれば、そこには実に多様な人間たちの顔があった。
そもそも、旅の緒からして不穏であった。エアインディアが「機材繰り」という名目のもと、航空会社が欠航を告げたのは、遅延を繰り返した挙句の夕刻であった。出鼻をくじかれた私は、その時、舌打ちの一つもしたかったはずだが、今となってはそれも、大いなる意志による「配慮」であったように思えてならない。

画面のなかで、懐かしい「演出家」たちが次々と現れる。
ハンピの古寺で共に夕日を眺めたディンプル。彼女のスクーターの背に揺られながら見た落日は、血のような朱であった。臨床心理士を目指す韓国から来たサニーとは、不思議なほどに再会を繰り返した。ホスペットの夜のバス停で彼女の顔を見つけた時の、あの磁石が引き合うような驚き。あるいは、ベナウリム・ビーチのシバという老人は、流暢な日本語を操り、私の胸に深い余韻を残した。
列車で食を分け与えてくれたテレビ局の老婦人、日本の思い出を語ったアフリカ出身の紳士、駅の冷たい床で夜を明かした際に語り合った若き講師、無数の偶然が重なり合っていた。挙げればきりがない。

ふと、私は眩暈(めまい)に似た戦慄を覚える。
もし、あの初日の欠航がなければ、私はこの誰一人とも邂逅(かいこう)していなかったはずなのだ。人生とは、つまるところ、こうした細部の集積によって構成される巨大な伽藍(がらん)ではないか。

私たちは、誕生という原初の偶然から始まり、進学や就職、あるいは伴侶との出会いといった、いくつかの大きな分岐点を選択して生きてきたつもりでいる。しかし、実際には「飛行機が飛ばなかった」という些細な齟齬こそが、不可逆的な未来を造形していくのである。
私が今、別の場所で別の誰かと笑っている可能性。その「存在したかもしれない私」の影が、ディスプレイの光を透過して、待合室の私を静かに揺さぶる。
人生は、計算の立たぬ「無頼旅」そのものである。私は再び画面を閉じ、次に私を待つ未知の欠航(アクシデント)へと、静かに想いを馳せた。

 ……そんな大袈裟なことを考えながら、ふと顔を上げると、会計を待つ人々の静かな日常がそこにありました。
予定通りにいかないのが旅。そして、おそらくは人生も。
次はどんな「想定外」が私を待っているのか。検査結果に安堵しながら、私はもう、次の無頼旅の空を見上げています。

人生とは、こうした無数のノミ跡が重なり合って成る伽藍のようなもの Ajanta Caves, India

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